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「世界に一つだけの花」についての反論者への問い
  「世界に一つだけの花」という題名の歌があるが、この歌詞にいちゃもんをつける人がいるようである。彼らの主張の趣旨は「「No.1にならなくても、Only oneだからそれでいい」というのは甘えである」というものである。
  しかし、これに対しては直ちに2つの疑問が浮かび上がってくる。


  (1) 「「No.1にならなくても、Only oneだからそれでいい」というのは甘えである」という言明が、事実として絶対確実に正しいということはいかにして論証されるのか。(「甘え」という語の分析の要請)
  (2) 甘えてはならないという規範が絶対確実に正しいということはいかにして論証されるのか。


  ここで、(2)に対して「経済云々、人類衰退云々」と反論する場合、


  (3) 人類が存在し続けなければならないという信念が絶対確実に正しいことはいかにして論証されるのか。


  という問いが生じることになる。


  さて、冒頭に示した彼らの言明には、その断定的主張からも垣間見えてき、また彼ら自身が直接的に発話することもあるが、「No.1にならなければならない」という主張も含まれている。
  その主張の前には、次の問いが立ちはだかっている。


  (4) No.1であることはいかにして決定されるのか。


  この文には2種類の問いが潜んでいる。1つは、対象がNo.1である(ここではある1人の人が人類の頂点に位置することを指している)という認識が絶対確実に正しいものとなるにはどのような条件が必要かというものであり、もう1つは、細分化した各分野(たとえば野球と数学)におけるNo.1が判明したとして、それらの間で統合No.1を決定するのはいかにして可能かというものである。(前者の問いの前に解決しておかなければならない問題として、No.1という状態は、ある1人の人が人類の頂点に位置することを指しているのか、それとも複数人が頂点に位置するという状況、言い換えれば複数の人が同時に頂点に位置することをも許容し得るのかというものがある。また、後者に付随する問題には、分野の細分化の方法としてどのようなものが適切と言えるかというものがある。)
  ここにはまた、ある独断も前提されている。それは、No.1という語は、一般的には良い、あるいは優れていると分類される側の1位ということである(皮肉として、悪い側の1位を表現するときに使用することもあるが、反論者にとってはその使用法を採用しているのだなどとは言えまい。)が、その語の使用者による、良い、悪いといった認識が絶対確実であるという独断である。(分析倫理学と規範倫理学の問題)さらに、そこから、良くなければならない、劣っていてはならないといった規範が絶対確実に正しいことがいかにして論証されるかという問いも生じることになる。


  これに対して、「われわれの言うNo.1とは分野ごとのNo.1である」との応答があることを仮定しよう。
  しかしながら、ここでも似たような、しかし同一ではない問題が生じることとなる。その問題とは以下のとおりである。


  (4)´ その分野の絶対確実に正しい分類の仕方はどのようなものか?


  次に、彼らが行っている厳密でない仕方に従うことにしよう。
  ところが、そこまで譲歩したとしても、まだ問題はある。(ただし、俗流の方法に対応してこちらも俗流の問題を提示することとする。)


  (a) 「(俗流の方法で決定された)No.1にならなければならない」という言明は、「人類はただの1人の例外もなく全知全能にならなければならない」と言い換えることができる。


  なぜそのように言えるのか。それは、たとえば数学の分野においてゲーデルがNo.1であるとして、彼を超克するには彼が導き出した定理を超えなければならない。(注:ある定理を超える定理というものをいったいどのようにして判断するのか分からないかもしれないが、それは私にも分からない。私はただ、俗流の反論に対して、俗流の、わけの分からない方法で応答しているだけである。)ところで、「No.1にならなければならない」というのは自らを含めて全人類に言っているのであった。全人類が新しい定理を次々に発見していくのであるから、この競争はそれ以上は論理的に不可能な地点である全知全能の状態になるまで続けられることになるのである。
  ここで、複数人がNo.1になることはできない場合に次の問題が生じる。


  (b) No.1とは、ただ1人が1位になることであるが、全人類が全知全能にならなければならないと言い、実際にそのとおりになれば、誰もNo.1になることができていないということになる。しかも、もう(全知全能の)先はないのである!


  こうして、「No.1にならなければならない」論者は、厳密な仕方においては独断を行うがゆえに大変な苦戦を強いられ、厳密でない仕方においては論駁される議論を展開している可能性が大きいために敗北の色が濃厚なのである。




# 「No.1にならなければならない」論者が完敗しないためには、少なくとも「No.1という状態を複数人が同時に占有することができる」という命題の正しさを論証する必要がある。逆に言えば、「複数人が同時にNo.1になることは不可能である」、あるいは「ただ1人しかNo.1になることはできない」ということが論証できれば、「No.1にならなければならない」論者を完敗させることができるのである。

更新日 2008年6月--日
作成日 2007年9月24日



関連項目

A 懐疑論とその限界
A 論理の重要性についての1節
B ファスト・フード店にて
B オナニーと健康被害
C 予言の独断的前提