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Name:あああ Date:03/06 Tue 22:35:13 長いな、おい。俺は短く纏めて欲しいと頼んだはずなんだが。まあいいけど。昨日の時点で書こうと思ってた事を書かなくて良かった。俺の私見の大半は間宮君のレスに内包されているようだ。以下は殆ど搾りかすのような事だが、一応書いておく。俺は全ての人間は間宮君の言う様な実践上の矛盾は犯していないと考えている。 それは全ての人間が、自分のしたいようにするという唯一絶対の基準に従って行動しているからだ。それ以外の間宮君が挙げたような理論は全て上の基準に従属するものに過ぎない。つまり、それらの従属する理論は常に流動的であり、上位の基準に反するなら常に棄却されるのである。間宮君が批判するのは多くの人間がそれを無意識の内に実行しているにもかかわらず、そこを省みようとせず、あたかも普遍的な正当性を持つかのごとく振舞うこと、というところか。ただ、その事も結局は上の基準に反するものではなく、絶対的な自己中心性に従っているだけである。言うまでもなく、これは彼らの言動に普遍的正当性を与えるものではなく、飽くまで自己完結的なもの。また、間宮君が自らも認めたように、他者に対する攻撃は正当性を持つものではない。個々の自己中心性はそれが大多数の自己中心性の最大公約数的(ですらないかもしれないが)な妥協点を明文化し、強制力を持たせた法律といったものによって制約されうるということであり、ガキ晒し上げの例においてもその事を含めた言動はただの脅迫に過ぎない。そして同様の手法を持って他者を制裁しようとすれば、ただそれが自分にも跳ね返るだけのことである。ここで上で述べた事に更に突っ込むなら、そもそも他者への攻撃のみならず、全ての行動はそこに普遍的な正当性を付与する類のものではないのだ。 あるのは強者が、民主国家においては(見かけ上)多数派が強制力を持つ規制を設定できるという事実だけだ。そこで結論だが、間宮君が自らの不満を自らの理論に反することなく満足させるためには首を吊るのが一番手っ取り早いと俺は思う。
Name:あああ Date:03/07 Wed 21:33:06 まず間宮君のいう理論と言うのは必ずしも公にしなくてはならないものではないと俺は考えているが、それについての意見は?というのはそうする義務があるとかないとかではなく、この議論をする上での前提として訊いているのである。 とりあえずそれに対する間宮君の返答は置いておいて、ここからは必ずしも公にする必要はないとして話を進める。だとすると、自分が自分のしたいようにするという基準に従って行動していることを公に認めないという行動自体も、結局は上記の基準には全く反していない事になることは分かるか?非常に単純な反証で申し訳ないが、そうとしか言いようがない。これで納得出来ないなら、具体的にどのように実践上の矛盾を犯しているのか、もしくは俺が実践上の矛盾というものをどのように誤解しているかを説明してもらいたい。そして、これが二重基準ではないのかという見解については、先にも説明したように、そうでない基準は上位の基準に従って変化するか、上位の基準に従った行動、もしくは建前に過ぎず、そもそも基準ですらない、ということになる。 確認的質問については、ディテールは違うが凡そそういう見解だと思ってもらっていい。また前も述べたが、社会性は自己中心性の産物であると思っている。いうまでもなく、一般的な意味で正当性を付与しようとすることも自己中心性の産物だと思う。
Name:あああ Date:03/09 Fri 02:38:10 まず先に言っておくが、俺は間宮君をやり込めたいわけではなく、私見を述べているだけだ。ここでいくら話し合ってもお互いの主張が正しいかどうかを証明は勿論、相手に納得させるすら事はできないと思っている。 さて、間宮君が焦点としている事を更に掘り下げると、根本には基準は外部からの観察によっても決定されうるとみなせるかどうかか問題として存在している。これに対しては俺は既に見解を述べているが、敢えて繰り返すなら、実践上の矛盾がないというのは飽くまで自己完結的な意味合いにおいて矛盾がないと言っているに過ぎない。そして、仮に全ての人間が(意識的にしろ無意識的にしろ)そういった基準に従って行動していると仮定すれば純理論的にも非超越論的な立場における正当性と自己中心性を同一視することにより、問題を解消出来ると思う(間宮君の言う難問が何かはまだ明確にされていないが、予想として)。 今回の間宮君の発言でお互いに実践上の矛盾に対する捉え方に食い違いが生じている事が明らかになった。ここで間宮君の見解について更に見解を述べる。外部の人間が(対象の建前の主張等の)観察によってその人の基準を決定出来るとしたところでそこに何の意味があるのか。俺はそれについては下で述べたつもりだったが、他者との論争においてそれ(矛盾)を批判の材料にする事は出来ると思う。しかしそれは多数の人間が認証している論理上の制約のもとでの矛盾を指摘しているに過ぎず、その論理上の制約は多数の人間の自己中心性が見かけ上の合意を得て決定されたものであることを忘れてはならない。つまり、他者を非難するための正当性(らしきもの)を付与するために、「間宮君の言う」実践上の矛盾を突きつけるという行為は結局、間宮君が最も嫌っているように思える、多数の一般人による少数派の非難となんら変わりがないということになる。勿論、俺自身もこういった論理上の制約を利用することは多々あるし、それは合理的(正当性がある事とは別だ)であると考えているが、基準を他人が観察によって決定し、これを二重基準であると言えたとして、突き詰めて考えると、その力を行使する上で必ず矛盾が生じる。その理由は上で述べた自己中心性による自己中心性の批判と、実践という人間の営みにおける超越論的正当性の証明の不可能性による。結局のところ、この論理でいくと、他者の矛盾を許さないのに、その判断基準には矛盾を含むことになってしまう。つまり、大多数の人間は矛盾を無視するか、矛盾が最小限だと勝手に思い込んでいる事を正当であると認可していることになる。言うまでもなく、その矛盾の多寡の基準は人間の感覚に大きく依存しており、またそれが幾ら些細な事でも二重基準を犯すことになる(矛盾を犯すことを許さないのに、矛盾を裁くため(罰を与えるという事に限らない)に矛盾を犯すということだ。逆に矛盾を裁けないなら全ての矛盾は認可されることになる)。結論として、間宮君の主張を認めると、結局間宮君の主張は許さないはずの実践上の矛盾を含むことになり、また認めなくてはならない。ただし、間宮君の主張が、間宮君も含めた全ての人間が実践上の矛盾を犯しており、これを回避する事は絶対に出来ないという旨であるなら、俺はそれを必ずしも否定しない。 間宮君は客観性を否定していたと思うが、それでも、この問題において基準が絶対だと言えるのは自分だけなのではないか。他者の決定する対象の基準は、必ずその決定に主観、自己中心性が混じるはずであり、そもそも観察自体主体的行為にすぎない。 他者がそれ以外の他者に実践上の矛盾があると感じる事自体、それは彼自身の内面においてのみ正当化されることだと思う。つまり、それを間宮君の論法を以って他者に適用しようとする事に無理がある。だから俺は初めから実践上の矛盾を自己のみに限定してきたつもりだったんだ。そして他者を自分の基準で裁いても構わない、しかしそれは実践上の矛盾があるから正当であると認められるものではなく、ただ単に自分が気に入らない(自分の基準、すなわち自分勝手に行動するための障害になる)から裁こうとしているだけで、その行為はまた他者の力によって(正当性なく)制限されうるという事だけが事実として確認できる、というのが俺の見解だ。